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著者本人による公開レッスンを東京(杉並区西荻窪)と関西(神戸)にて 開講しています。
団体クラス受講料
受講生1回5,000円
聴講のみ見学生3,000円
東京では次回3月下旬開催決定につき受講生募集します。

テキスト現在第2章が完成、2014年8月18日より販売開始。 原稿は第3章が執筆・開発開始。続編が定期的に公開される予定です。

レッスンDVDは第1章の2巻-1が完成!2014年1月8日より販売開始。続編は鋭意制作中です。

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サンセマスター講師による、通常の定期レッスンも開講。
受講生1回4,000円
(少人数クラス) 聴講生の受け入れは行っておりません。



N.Eto_Profile

サンセ誕生までの道のり 文/江藤 誠仁右衛門

1945年(昭和20年)3月21日兵庫県神戸市に生まれる。
父、輝(あきら)は作曲家であり、母、支那子はピアニストであった。
当時二人はかなり有名な音楽家であったが、戦時中の為に活動を休止。
私が生まれた4日後に神戸大空襲で家もピアノも全て失う。

一歳の時に父、輝が他界。
母支那子は女手ひとつで七人の子供たちを養い育てる。
母はほとんど音楽活動が出来ない状態であったため、
結果として中学卒業まで私にとって音楽環境は皆無であった。

1961年(昭和36年)頃から音楽に目覚める。
この頃、母がピアノを購入し自宅にピアノ教室を開設する。
また、同居していた兄が蒐集したクラシック音楽のレコードを隙に飽かせて聴いていた。

その中で二人の作曲家の曲を夢中になって聴くようになる。
一人はチャイコフスキー、特にピアノトリオ「偉大なる芸術家の生涯」が心を捉えた。
もう一人はフランクであり、特にニ短調交響曲は自分を支える音楽の原点として、
今でも心に響いている。

ピアノを全く弾いた経験のない17歳の12月、
母や母の弟子の前で突然に即興演奏をして皆を驚かせた。
その結果、家族全員が音楽の道を進むように応援してくれた。

1964年、大阪学芸大学(現、大阪教育大学)音楽科に入学。
そこで、山縣茂太郎氏に和声・作曲法を、加藤直四郎氏に合唱・ソルフェージュを学ぶ。
しかし、自身の音楽経験の未熟さの為に、少しも心に入ってくるものはなかった。

1966年、当時最高と云われた作曲の指導者・池ノ内友次郎氏に出会う。
1968年、東京芸術大学作曲科に入学。

池ノ内友次郎氏に対位法・フーガの技法を、
矢代秋雄氏に和声法・作曲法を
永富正之氏にスコアリーディング・ソルフェージュの教授を受ける。
しかし、教授されるだけではなかなか心に響いてこないことに疑問を感じ始める。
ただ、永富正之氏のソルフェージュに対する姿勢と、
「ソルフェージュは音楽を生み出す大地のようなものだ」という言葉に、
心から感動した事が、今の音楽の原点になったと思っている。

1973年東京芸術大学を卒業し、作曲家として活動を始める。


<主な作品>
アルモニアオーケストラのために作曲した、”弦楽のための「Isis」”が公表を受ける。
大阪弦楽四重奏団結成の委嘱作品、”弦楽四重奏の為の「モモ」”は何回も再演され
現在でも演奏会で取り上げられる。

与謝野晶子の会(大阪堺市)より委嘱された曲、 ”十首の短歌による「夜明けの歌」”は、
アメリカやロシアでも演奏され、1988年ソウルオリンピック時の韓国現代音楽の会では、
国外唯一の作品として招聘され演奏される。


<教授歴>

1973年より相愛大学音楽教室で学科(カリキュラム)委員となる。
1974年同上に加え武庫川女子大学音楽部で教え始める。
1975年それらに加えて大阪音楽大学で教え始める。
1977年さらに樟蔭女子大学児童学科で教え始める。
1990年より神戸山手女子短期大学音楽科でも教え始める。

多くの大学で教授する中で、過去に自身が教授を受けていた時の疑問が甦る。

音楽を教わる側(学習者)の心に、直接に訴えかける教授法ないのか? という疑問に、
自身が応えられないかを問い始め、 1991年、地元神戸でIst(イスト)の音楽講座を開設する。

これより本格的に体感できる音楽教授法を追及し、 音楽を純粋に求める心を大切にしながら、
「ソルフェージュから作曲法まで」の方法論的音楽教授法の研鑽を現在まで続ける。

2012年、それらの集大成として、
「”サンセ”体感できる実践と、納得できる解説」を一冊の本として著し、その第1章が完成。